白石資朗法律事務所

白石正一郎日記現代語訳(奇兵隊編)

文久3年6月〜7月  奇兵隊結成し、白石正一郎が士分に取り立てられる

文久3年
 6月 1日  昼過ぎに世子君様が裏門からバッテラにお乗り込みになった。およそ5,6丁お
        出でのところ、東の沖から外国船が海峡に入ってきたために相図の大砲で砲撃し
        すぐさま引き返されて浜門からお入りあそばされた。さて、頻りに砲撃の音が聞
        こえ、廉作、庫之進が出陣した。私は、若殿様がおられるため、家にとどまっ
        た。外国船は、おもに壬戌丸を的として砲撃した。世子様がお乗りになる船だ
        と知ってのことか、壬戌丸に弾丸が多くあたった。また、庚辰丸、癸亥丸にも弾
        丸が多くあたり、ついに、壬戌丸のドウコが打ち破られ、煮え湯による即死者が
        4人。伊崎の利吉と申す者は水先案内を勤めていたところ、弾丸にあたって即死
        した。
         さて、若殿様がお引き返しになった後、すぐに徒歩にて伊崎の日寄山へお登
        りになり、外国船の様子を御覧あそばされ、夕方、ご帰還あそばされた。中山卿
        も当家にお出でになり、突然、御上京の御議論になった。前田御茶屋へ滞在して
        いる者たち5,60人がお供するとのことである。
         中山卿からも、若殿様からも、いろいろと頂戴物があった。
        * 外国船はアメリカ船のワイオミング号。「さきに砲撃されたベンブローク号

         の復讐のためにやってきた」「(壬戌丸は)船上に旗幟を立て、定紋の紫幕を
         はっていたので目標にされた」「ワイオミング号はちょうど南北戦争中の北軍
         の軍艦で、南軍の軍艦アラバマ号を追って横浜まで来たがベンブローク号のこ
         とを聞き、下関をめざしてやってきた」(「幕末の豪商志士 白石正一郎」中
         原雅夫)
        * 「この日、姉小路公知の死が知らされた」(「幕末の豪商志士 白石正一
         郎」中原雅夫) あわただしく上京の議論になったのは、そのため。
  6月 2日  若殿様が駕籠でご出発になった。今日から前田台場を築き上げるためのご加勢
         として廉作と庫之進が進発頭とされた。竹崎の者を2,30人召し連れて、白
         木綿の小幟に「報国尽忠一番竹崎」と書き付け、太鼓を打ち、出勤するので、
         おいおい、新地や伊崎、今浦近辺からも人数が加わってきた。
          さて、今日の昼過ぎに、宮城から申し聞かされ、大庭を呼びに遣いをやっ
         た。これは、昨日の軍が、壬戌丸をめがけて砲撃したことについて、幕吏が乗
         り込んでいたようで、下関にも3人ほど滞在していたとのことである。状況が
         落ち着いたら内分取り調べることなどがあるようだ。
  6月 3日  昼過ぎ、久留米藩の真木外記、原道太、荒巻羊三郎、坂井伝二郎、滝弥太郎、

         赤根幹之丞が連れだって来た。久留米藩の4人と滝は夜も昼も歩き通し、宿の
         駕籠にて上京する。今日、大庭よりからの知らせで、明日、長府公より私へ四
         つ時にご用があると申し伝えられた。
         * 赤根幹之丞は、赤根武人。のちの奇兵隊総督。
  6月 4日  長府へ罷り出たところ、生涯三人扶持の俸給を下された。書き付けは原田より
         渡された。
  6月 5日  外国船が、上方から2艘、海峡に入ってきた。フランス船とのことである。八
         軒屋の台場へ行って見たところ、アメガクボに繋船している。長府と前田台場
         へ向けて大砲で砲撃し、追々、大軍になった。前田台場の大砲は破壊され、外
         国人はバッテラで前田に上陸し、人家を焼き尽くした。そのほか、大騒動に
         なった。昼七つ時に少しの間、帰宅し、尊大人、母、峯太郎などが一の宮へ移
         り住むように取り計らい、荷物も必要なものを少々、送った。
  6月  6日 宮城が下関を出た。途中、何者かが斬りかかってきたとのことである。幕吏で
         あろうという。夕方、久留米より土屋矢之介が下関へ帰ってきた。久留米藩の
         20人ばかりが上京した。今夜遅く、萩から高杉晋作が下関へ来て宿泊した。
  6月  8日  高杉が、当家にて奇兵隊を立ち上げた。正一郎、廉作、井石綱右衛門、山本

         孝兵衛などが入隊した。
           昼、高杉が其外船で台場を見分した。萩のお役人より、中山卿が滞在した
         ご挨拶として60両を頂戴した。薩摩より問い合わせとして重野厚之丞、川治
         正之進の両人が到着し、酒屋の2階で高杉と対面した。両人は今夜大里まで
         帰った。
  6月  9日  昼前、関の田中にて、山田志摩を捕まえてきて、当家にて取調べがあった。
           また、長府領の虚無僧ひとりと、大塚柳斎、尾崎禎助なども同様であった
          が、問題なく釈放された。長崎の者ひとりが御手洗屋に居候していたのが捕
          まった。今夜は、目明かしの預かりとなったようだ。今日、芸州の穂神輝門
          という者が来た。赤根が応対し、久留米藩の渕上、池尻茂四郎、山本実、
          松浦八郎、木原貞亮等が、すぐさま上京した。山田志摩は、今夜、斬られ
          るところであったが、しばらくの間、救われることになった。。
  6月 10日  今日までに、奇兵隊士はおよそ60余人となった。
  6月 11日  長府へ、先日のお礼を申し上げに参るための支度中、突然、大砲を積ん
          だ外国船が来た。すぐさま、奇兵隊が出動した。長府の手前、浜の方、百
          町の浜辺に潜んで待機した。八つ時、外国船は出帆し、上方に行った。戦

          争にはならなかった。イギリス船であった。
  6月  12日 長府へ行き、お役人の家へお礼した。
  6月  13日 奇兵隊の連中は、今日、この方を引き払い、残らず馬関に陣取ることに
          なった。宮城ほか数名は小倉へ渡海した。昨夜、長府興膳と尚蔵が斬られ
          たようだ。
  6月  14日 宮城、赤根が夕方小倉から戻ってきた。
  6月  15日 久坂が京から帰り、来訪した。また今夜から上京するとのことである。先日
          京都で姉小路様を斬ったのは、薩摩の田中新兵衞と申す者であることを、
          今日、久坂から聞いた。波多野も、今日、来た。
  6月  16日  夕方、大村の人である渡辺昇、千葉茂手木の両人が来訪した。高杉
          が応対し、奇兵隊から5人が小倉に行く。ほどなく、小倉から3人が戻って
          来た。話し合ったうえ、またまた小倉へ差し遣わせた。田浦借用一条也。
          * 田浦借用は、小倉藩の田浦を占領したということ。
  6月  17日  大村の両人が出立し、帰省した。
  6月  18日  萩から坂上忠助と秋良敦の助の両人が九州へのお使いとのことで来訪
          した。ところが、もともと偏屈な者なので高杉と意見があわず、両人は帰っ

          て行った。22日、豊前に渡海した。
  6月  20日  高杉は穂神と同道して前田台場へ行った。
  6月  21日  長州藩、大阪から30人ばかり到着した。
  6月  23日  在番から奇兵隊にご用とのお達しがあった。お役目は、留守中、当分小林
           熊二郎へ申しつけられた。
           * 幕末の豪商志士白石正一郎(中原雅夫)によると「清末藩竹崎在番か
            ら白石正一郎に対し、6月23日、奇兵隊ご用を勤めよとのお達しがあ
            り、その代わり大年寄の役は小林熊二郎がつとめることになった。」
  6月 24日   国司、高杉、波多野、山県、何某、正一郎、廉作が、前田の砲台へ行き、
          台場に加勢した。加勢したことで御酒をいただいた。前田が焼かれて被害を
          受けた百姓たちへ米・銀を遣わされた。奇兵隊の世話人である井石綱右衛
          門へ帯刀が許された。ならや源兵衛、徳本屋、山本孝兵衛などへ金200疋
          を下された。
           今夜から高杉が山口へ行き、赤根が田浦から帰ってきた。
          * 赤根は、6月16日に占領していた小倉藩の田浦から帰ってきた。
  6月 25日  夜に入り、惣奉行である国司殿から招請された。正一郎と廉作とで一緒に宿

          泊されている林へ行き、ご馳走になった。宮城、波多野、山県、蔵などはご
          相伴にあずかった。段々とお尋ねがあったので、私が気付いたことを申し上
          げた。富くじのことは、当分、よろしからずと申し述べた。
  6月 28日  今日、宮城が来て、富くじのことについて善悪を議論した。
          * 幕末の豪商志士白石正一郎(中原雅夫)によると、このころ富くじを発
           行して戦費をまかなおうという議論があり、正一郎は庶民の立場から賛成
           しないという意見であった。
  6月 29日  高杉が山口から下関に帰ってきた。来月4日に御勅使が山口にお着きになる
          と承った。今日の昼、徳山藩の4人が来訪した。坂健之丞、松岡修作、山田
          小太郎、渡辺新三郎である。
 7月2日    清末候が御出浦された。惣奉行である国司、宮城、高杉等が竹崎御殿に出頭し
       た。長府より西蔵人太夫、熊野清右衛門、原田準二などが来て、正一郎を御前へ召
       し寄せ御酒を頂戴した。御座の間へ召され御手ずから御酒を頂戴するようせつけら
       れたのである。
       * 幕末の豪商志士白石正一郎(中原雅夫)によると「清末候」は清末藩主毛利元
        澄であり、正一郎の奔走が認められ、藩主の手から御酒をいただいた。

   7月3日    竹崎御殿へ出頭し、昼前、次のとおり通達された。
        (通達)「白石正一郎
             右のもの、萩表よりご所望につき通達を申しつける。山口表へ罷り出
            るように。」

 

            この通達を、竹崎御殿において、在番の飯田?蔵が申し渡した。すぐに退
       出して高杉氏方を訪れた。明日、山口へ向けて出発するというので、じぶんも支度
       をした。昼過ぎ、御殿から急に殿様に召し出された。正一郎と廉作とで一緒に罷り
       出たところ、御二の間において、清末候から直々にお言葉をいただいた。
        勤王に尽くしていることは兼々、神妙に思っているとのお褒めのお言葉をいただ
       いた。また、近日山口へ、大膳様(毛利敬親)からも召し出されていること、忠勤
       に励めよと、直々に仰せられた。
        退出して帰宅した後、夕方になって久留米藩の4名が来訪した。池尻茂左衛門、
       山本実、佐田素太郎、加藤常吉などである。久留米藩の4名へ国司より酒を出すよ
       うにと言ってきたので、そのように取り計らった。
   7月4日   大年宮(大歳神社)へ参詣した。それから支度して、母君が一の宮へ帰ると
       いうので付き添った。尊大人に、山口から召し出されていることを申し上げたとこ
       ろ、お喜びになった。それから出立した。
   7月5日  夕方、山口に着いた。夜5つ時、にわかにご用のお使いが来た。ご用所である
       三文字屋に行く。中村誠一より次のとおり読み聞かされた。但し、黄色い紙はご用
       の手紙である。

 

         2人分のご扶持を与える。
         扶持米は3石2斗であり、石高にして17石とする。
         白石正一郎は、かねてより尊皇攘夷の正義をわきまえ、心得、よろしくにつ
       き、昨年の春、御用達を仰せつけられ、藩のご用に役立ってきた。なおまた、この
       度、異国船を打ち払うにあたって昼夜心を配り苦労を掛けてきた。ついては、格別
       の措置として、以前、通知したとおり、、お忍び扶持により三十人通として召し抱
       え、譜代の家臣になるよう仰せつける。(但し、日付なし)
       * 中原雅夫「幕末の豪商志士 白石正一郎」によると、三十人通というのは、萩
        藩のお目見え以下の下級家臣。高杉晋作の推薦による破格の栄誉とのこと。
   7月6日  今朝、月代をしてご政務の座へ出勤した。三文字屋ほか、吉田栄太も昇進した
        ので、一同、出勤した。その後、飯田八郎左衛門の手引きにより名札をもって挨
        拶回りをした。
   7月7日  氷上山において、御勅使である正親町様とお目見えした。佐久間左兵衛が手引
        きし、取り計らってくれた。
   7月9日  萩において、御役家に挨拶回りに行く。証人である鬼武久兵衛が指図して、ど
        こに挨拶回りに行くかという書き付けをくれた。

   7月11日 帰宅した。
   7月12日 月代をして馬関出張中のお役人方へ挨拶回りに行く。なおまた、阿弥陀寺、極
         楽寺に詰めている奇兵隊へも挨拶に行く。昨今、しきりに造作している。近日
         中に御勅使様のための御旅館をご用意しているからだ。留守中に廉作が取り計
         らった。
         * 阿弥陀寺は、平家一門の墓、耳なし芳一で有名。今の赤間神宮。
           安徳天皇が祀られている。
   7月13日 今夜、田浦に詰めている奇兵隊士である原田熊二郎、松尾甲之進が訪ねてき
         た。長崎行きの機密相談があるということなので100両を貸し渡した。
   7月15日 御勅使様がご到着になった。今日はお疲れなので何もなかった。長府清末藩よ
         り太夫を始め役人が来て台所が大混雑であった。
   7月16日 萩より前田翁が下関へ来て、酒場に着いた。今日、御本陣の亭主となっている
        白石廉作より御勅使様へカツオ13本を献上した。4つ時、お目見えを仰せつけ
        られた。尊大人、母君、正一郎、廉作の4人である。昼過ぎより、御船にて、壇
        ノ浦、杉ヶ谷、前田、それぞれ台場を御巡覧された。御本船に、正一郎と廉作が
        乗り組むよう仰せつけられた。阿弥陀寺よりお上がりになり、それから御馬で移

        動、それから、またまた御本船にて田浦へお出でになった。廉作が御本船へお供
        し、正一郎は前田から帰宅した。夜の4つ時、御船が田浦より帰ってきた。
   7月17日 高杉、宮城、波多野、小田村、佐久間、糸賀などが来て、小倉藩の5罪を書い
         た書き付けが出来たというので、一見した。
   7月18日 御勅使様が引嶋台場、大里・久留米の台場を御覧になった。正一郎と廉作は御
         本船にお供した。夜5つ時、ご帰館になった。
   7月19日 今夜、御親兵のうち、水戸の人が2人、正親町様へ提議した。小倉藩のことで
         ある。議論の終わり頃、奇兵隊から30人ほどが来て、一挙に及ぼうとした
         が、今夜の議論は終わりとして解散した。高杉は泊まった。小田村は夜に
         なって山口に帰った。
         * 中原雅夫「幕末の豪商志士 白石正一郎」によると、奇兵隊らは小倉藩の
          態度をけしからぬとして「小倉五罪」を列挙し、ただちに小倉討伐の命令を
          受けたいと勅使に迫ったということである。
   7月20日  正親町様より、先日献上したカツオの返礼として、扇子5本・盃2つ・八景
          の色紙などを下されると仰せつけられた。なおまた、山口よりご進物の菓子
          箱も頂戴した。今夜、原田熊五郎が来て、先日、100両を貸し渡したうち

          の58両3分を返済してきたので取り置いた。
   7月21日  御勅使様が御発輿遊ばされた(帰って行った)。

文久3年7月23日〜・荒れる下関

   7月23日  正一郎が、この度、結構なお役目をいただいた(士分として取り立てられ
         た)お祝いとして、宮城を始めとする、お役人方々に案内を申し遣わし、料理
         を整えていたところ、上方より異国船が入港したとの合図が出たので、祝いの
         席は取りやめとした。前田台場へ行ったところ、異国船ではなく幕府の船との
         ことであった。幕府の船は豊前塩飽田へ向かっているようなので、前田より斥
         候として、正一郎と、藤井新五郎、小崎禎介と、もう1人の合計4人で田浦
         へ渡り、それから風が烈しかったので部崎の方へ廻るのが困難であった。その
         ため、岩の岬から山へ登り、灯籠堂のところへ出、白江村に着いた。この時、
         田浦から来た小隊20人に出会った。白の江の庄屋が、幕府の船より上陸する
         ところを見たというので、尋ねたが、具体的なことを言わないので、田浦へ連
         れ帰った。尋問は滝に申しつけ、4人とも前田陣屋へ、夜遅く帰り着いた。暗
         い夜だったので、正一郎は土手の川に落ち込み、足を怪我した。
   7月24日  朝、足の治療をしていた最中に、幕府の船が馬関へ乗り込み、打ち払いの注
         進があるということなので、すぐさま支度して行った。しかしながら、打ち払
         いにはならず、船は馬関に泊まった。
   7月26日  高杉が山口から帰ってきた。廉作を呼びに行くといい、ご急用により廉作が

         筑前へ行くことになった。高橋貫介が同行した。
   7月27日  筑前の平野二郎、小田部、中村円太が高杉と奈良屋で面会した。
   7月28日  幕府の船のことで、先日からいろいろ議論があったが、今日、調った。
   7月31日  廉作が筑前より帰ってきた。また、すぐさま宮市へ行った。御勅使様へ筑前
          からの返答を申し上げるためである。
   8月 1日  宮城、波多野より肴、野菜、たくさんの祝いの品が届く。依野、宮城、波多
         野、国司など招請があった。高杉は山口へ行った。
   8月 9日  幕府の船の役人が廉作と同行し、穂神、吉田年麻呂などと来た。芸者を10
         人ばかり連れて来た。大騒ぎの末、吉田年麻呂が抜刀し、燭台や畳などに斬り
         つけた。
          * 中原雅夫「幕末の豪商志士 白石正一郎」によると、幕府の真意が攘夷
           を抑止することにあること、幕府の使いは外国船を砲撃したことについて
           の詰問の使いであることから、下関側が憤激していたとのことである。
   8月12日  近日、若殿様が(世嗣・毛利定広)が下関に出て来られて、御本陣にすると
         のご連絡があった。昼、幕府の船を見に行った。竹崎の在番である入江直人が
         同行した。頼来の町方である笹尾なども同行した。吉田年麻呂が大いにもてな

         してくれた。
   8月13日  若殿様がいらっしゃった。夜4つ時のことである。大雨が降った。
   8月14日  高杉、波多野、宮城、奇兵隊伍長など20人ばかりが来て御前会議となっ
         た。
          * 中原雅夫「幕末の豪商志士 白石正一郎」によると、「攘夷戦で沈没し
           た長州藩の軍艦の代わりとして朝陽丸(幕府の船)を借りよう」と下関側
           から意見が出てきて、それは穏やかではないと、事態を収拾するために世
           嗣を下関に出張させたとのことである。
 8月16日  御船にて、前田、田浦の各台場をご巡覧あそばされるはずであったが、風雨によ
      り、お取りやめになった。すると、夜に入り、奇兵隊から急飛脚がきた。大変なこと
      が起きたという、高杉より若殿様宛の書状が届いたが、詳細がわからないので、正一
      郎と廉作とで奇兵隊詰め所へ参り、しっかりと様子を聞き出して直ちに知らせるよう
      にと、毛利登・大和弥八郎の両人から申しつけられた。そのため、すぐさま向かった
      が、途中の豊前田のあたりで先鋒隊の者30〜40名に出会い、おのおの抜き身の槍
      を持っていた。奇兵隊と争いが起きたようである。おいおい、阿弥陀寺(今の赤間神
      宮)に向かったところ、途中、奇兵隊士が甲冑で身を堅め、あちこちにいた。さて、

      本隊について高杉に会い、若殿様からのお使いであると伝えて尋ねた。高杉の説明に
      よると、今夜、宮城に対して先鋒隊から失礼なことがあったことから事が起こった。
           * 宮城彦助である。
      奇兵隊士が教法寺へ詰めかけて抜刀し、手負いも少々あった。このことを先鋒隊の本
      陣に訴え出た者があり大騒動になった。今夜、行きがかりに、豊前田で奈良屋源兵衛を
     先鋒隊の者が突き殺した。
       このようにして奇兵隊の様子を聞いて帰り、若殿様に注進した。すると、先鋒隊の
     者100人ばかりが御本陣へ詰めかけてきた。明け方、ようやく静まった。
       波多野より正一郎へ申しつけがあって、阿弥陀寺へ行った。奇兵隊士が集まってい
      るので、こちらの状況を知らせに行くためである。
8月18日  早朝、正一郎は大里にある久留米屋敷へ行った。これは、若殿様並びに長府のお殿
      様が、今日、台場をご見分されることを知らせるためである。四つ前、若殿様と長府
      のお殿様がお着きになり、大砲を御覧になるなどされた。それから、正一郎は、今度
      は田浦へ先行して田浦の皆に支度を調えさせ、御覧いただいた。五つ半時に、ご帰館
      になり、正一郎と廉作は一緒にお目見えし、頂戴物かずかずをいただいた。
8月19日  若殿様が山口に向けてお帰りあそばされた。

8月25日  宮城氏の噂によると、京都で大変なことが起こったとの情報が山口に届いたとのこ
      とである。すぐさま、高杉のところへ行ったが奇兵隊士は残らず京都へ向かう積リで
      あると聞いたので、その支度をした。
      * 8月18日政変のことである。
8月27日  宮城氏に切腹のご沙汰があった。恐れ入ったことである。
8月28日  昨夜遅く、寺内外記が高杉のところへ行った。若殿様からの書状を持参していた。
      書状の内容は受け容れ難いことではあったが、ひとまず奇兵隊が上洛すべきであると
      の議論は止んだ。秋月藩の戸原卯橘が脱藩して長州藩を頼ってきた。
9月 2日  奇兵隊士は、残らず小郡まで引き下がるようにと仰せ出でられ、翌3日から行くこ
      とになった。
9月 4日  久留米藩の槇外記、筑前藩の中村円太が京都からの帰途に来訪した。中山忠光卿が
      大和で官軍の旗揚げをして五条にわたって敵をお討ちになり、17の首をさらし首に
      したこと、大和で2000人くらいの勢力になっていることを伺った。
      *天誅組の変である。
       御勅使である正親町様が三田尻よりご乗船になり肥前・筑前へご下向と伺った。
        昼過ぎ、徳田隼人が来て、正一郎は今夜、出立した。

9月 5日  阿弥陀寺にて船に乗り込み、高杉、入江九一、片野が同船した。
9月 6日  秋穂に到着した。本陣は万徳院である。
9月 8日  正一郎は奇兵隊の会計方を申しつけられた。
9月11日  神保から弓の稽古をつけてもらう。初めてのことである。
        寺嶋が京都から帰ってきたので、京都の様子を伺った。
9月15日  高杉が奇兵隊総督を交代することになった。新しい総督は滝弥太郎と川上弥一両人
      になった。
9月20日  陣中、残らず山狩りに行った。梅ヶ谷にて、少し休憩した。
9月22日  奇兵隊士は残らず三田尻へ引っ越すようにとのご沙汰が、昨日、仰せ出られた。
        25日にそれぞれ行軍となった。今日、秋穂八幡宮へ弓隊より奉納があった。
9月25日  陣中、残らず三田尻へ転陣した。本陣である正福寺の境内に、一応、揃い、すぐさ
      ま七卿に拝謁を仰せつかった。御茶屋である。めいめい、武具を持ち、笠をかぶって
      御塀重門からお庭へ入り、拝謁の時になって笠をとり、槍の穂を後ろに向けて平伏し
      た。十七の伍長が病気だったので私が仮に伍長を務めた。伍長それぞれ御前に出た。
      *七卿  8月18日政変で都落ちとなった攘夷派公家。三条実美・三条西季知・東
      久世通禧・壬生基修・四条隆謌・姉小路頼徳・沢宣嘉。

       奇兵隊は、七卿の護衛についた。
9月26日  土屋矢之助が本陣へ来た。妻を迎えに行くとのことで頼談(借金の申込)があった
      ので、馬関の宿へ書状を出した。
9月28日  平野二郎が陣屋へ来た。三但洲のことを伺う。大和にて、中山忠光卿の勢力はおよ
      そ6〜7000人になったと伺う。

 

10月2日   今朝から馬の稽古をはじめる。伊藤貞蔵が教えてくれた。今夜、沢主水正様が脱
       走された。川上始、廉作、その外8人がお供した。夜に入り、伍長会議から程なく
       又々、東久世少々(原文ママ)様、四条侍従様も御脱走になった。警衛として、弓
       隊30人ばかりが同行した。三田尻問屋口からご乗船されるはずだったが、今夜は
       干潮でご乗船できず、御茶屋へお帰りになった。
         * 「幕末の豪商志士白石正一郎」(中原雅夫)によると、平野次郎国臣(福
          岡藩士)が、大和で挙兵した中山忠光卿と呼応して但馬で挙兵する計画をた
          て、平野の計画に沢宣嘉(主水正)が元帥となることを承諾して脱走し、但
          馬へ向かった。東久世、四条も同じく但馬へ向かい、白石廉作らと弓隊が同
          行した。生野の乱である。
         * 平野次郎国臣は、1858年12月12日、1859年3月、4月、8月
          などの日記にもあらわれている。
10月3日   明け方、御二卿様がご乗船あそばされたと承った。問屋口より廉作からの手紙が
       届いた。昨夜、したためたものが届いた。今夜、四つ時、東久世様、四条様が御茶
       屋へお帰りになった。
10月12日  三田尻浜向島のこちらがわで調練があった。弓矢を用意して出陣した。

10月13日  土佐の土方楠左衛門、松山源蔵が来訪し、面会の申し入れがあったので、惣管に
       伺ったうえで面談したところ、御六卿の思し召しもあり、薩摩の大嶋三右衛門(西
       郷隆盛)への添え書のことを申しに来たというが、私は次のように答えた。三右衛
       門の性質は、君命の外のことで動くことはなく、亡命などは決してしないから書状
       を差し遣わせても役に立たないと言って断った。この使いに、薩摩へ、久留米藩原
       道太など参り、槇泉州からも大嶋党へ手紙を書いたそうである。
10月15日  夕方、御茶屋へ行き、御三卿のところへ出てお慰め申し上げた。今夜砲声が聞こ
       え、皆、本陣へ詰めかけた。富永有隣はわけあって転を被った。
10月22日  木原亀の進の葬式で、桑の山へ葬った。奇兵隊士は残らず出席した。
10月25日  長府藩の内海石太郎が呉服屋で言えないようなことをし、その罪で切腹を申しつ
       けられ、めいめい光明寺へ出張って行った。
10月26日  行軍。山口へ行く。御五卿方が氷上山へご移転になるので、そのお供である。お
       のおの軍装を整え、昼四つ過ぎに出立した。夕方、氷上山に着いた。
10月27日  四つ半、軍装で出立した。外郎屋にて大殿様に拝謁を仰せつけられた。
10月31日  陣中、残らず御茶屋へ引き移った。
11月 8日  今夜、滝、赤根の両惣管と一緒に酒を飲んだ。廉作のことに話が及ぶ。久坂くん

       から手紙が来た。
11月10日  久留米藩の渕上郁太郎が陣屋に来た。但馬にて、廉作などが切腹したと伺った。
11月11日  三田尻社の人である荒瀬河内のところへ行き、廉作の神霊を祀った。
11月13日  中山忠光卿が、11日に御法体になって宿元へお出で遊ばされたとのことであ
       り、また馬関に御潜伏されるのは物騒だからと、宿元から醤油屋文三を使者とし
       て、連絡してきた。
11月14日  三田尻から馬関へ、早駕篭で帰った。藤村英熊が一緒に来た。中山忠光卿をお迎
       えするためである。明け方頃、竹崎に着いた。
11月15日  長府へ、大庭を呼びにやった。中山忠光侍従様のことであるが、12日に長府の
       井上丹下がお迎えに来たとのことである。三吉(家老)の領地である築山のふも
       と、庭田というところに御潜伏されることになったから、心配しなくて良いとのこ
       とである。長府のほうで引き受けたと伺い、大いに安心した。
         昨日、男子の孫が生まれた。
11月18日  藤村の一同は船に乗り、19日八つ時、三田尻陣屋へ帰った。
12月14日  三条様が三田尻にいらっしゃった。
12月15日  岸津浜にて、越烈機の調練に入ったのを御覧になった。

12月16日  山口の高杉氏のところへ話をしに行った。18日、三田尻陣屋へ帰った。
12月19日  三田尻から出立して、馬関に帰った。片野十郎と、伊藤三省が同行した。奇兵隊
       が馬関へ転陣することになったので、陣屋となる寺院を見に来たのである。
         20日、馬関に到着した。
12月23日  奇兵隊が、残らず馬関に着いた。
12月24日  林杢が陣に来た。滝惣管が前田と壇ノ浦、両所の陣屋に受取に行った。片野、木
       谷も一緒である。今夜、酒肴を用意していたところ、合図の大砲が鳴った。異船が
       上方から入港してきたようだ。夜、五つ時、それぞれ出陣した。四つ過ぎ、異船が
       田浦に来たとのことで、前田上下の台場から砲撃したところ、異船は沖の方へ漕ぎ
       出て行ったように見えたところ、九つ過ぎ、船内で出火して火炎が盛んに燃えだ
       し、遠めがねで見たところ、外車二本柱、一本筒が夜明けまで燃え、追々、本山の
       方へ流れていった。翌朝になって沈没した形跡があった。承るところによると、こ
       の船は薩摩の船であったとのことである。今夜から、寒い。至って寒い。

文久4年(元治元年) 下関戦争〜俗論党との対立〜功山寺決起

 1月 4日  幕府の長崎丸が通行する。船から使者両人が馬関へ来て、無事に通行した。
 1月11日  前田、壇ノ浦とも、大砲の試し打ちをするとのことで惣奉行が行った。
         私は会計方なので留守居をした。
 1月23日  馬関へ遠乗りご用所。久芳内記、中村九郎、そのほか多人数であった。新地岡の
       原に招魂場の候補地として見に行くためである。今夜、当家にて大宴会。田処の取
       り持ちによって中村と赤根が我が家に泊まった。
 2月 1日  私の母が70歳を迎えた祝いをするので休みをもらい、帰宅した。
 2月 2日  母のお祝いで奇兵隊から多人数の客が来た。
 2月 5日  正一郎、帰陣した。
 2月 8日  昼前から馬で新地招魂場の見分に行った。馬8頭で行った。
 2月16日  体調が悪いので、陣屋より引き取り帰宅した。
 3月 2日  証人阿武久兵衛より手紙が来た。廉作の追祭料として2両をくださった。書き付
        けも入っていた。
 3月15日  久しぶりに陣屋へ帰った。前田である。昼過ぎ、惣管ご用所より帰陣した。公卿
        の方々が下関に来られるというので旅館のことを承った。
 3月16日  帰宅して、御旅館の仕構えを役人が見分した。

 3月27日  御六卿様が夜に入り、お入りあそばされた。まことに大混雑である。しばらくし
       て拝謁を仰せつけられた。水野丹後が取り合わせてくれたのである。
 3月28日  昼過ぎより壇ノ浦台場を御覧になり、亀山神宮にも参詣あそばされた。正一郎と
       峯太郎(廉作の子)は軍装で三条様にお供した。さて、砲撃を御覧になった帰り
       道、阿弥陀寺へお入りあそばされ、安徳帝へ御拝礼あそばされた。夕方、ご帰館に
       なった。今夜、錦様の体調がよろしくなく、茶室でお休みあそばされた。
    * 「幕末の豪商志士 白石正一郎」(中原雅夫)によると、「錦小路は山口から下関へ
     の途中、中山駅で昼食の際喀血したので、かごに乗せて下関までつれてきたが、今日も
     白石家に帰ってから数度喀血したので使を山口へやって良医を求めた。」
 3月29日  錦様の体調がよろしくないため、引嶋を御覧になるのは延期となった。御五卿様
       は招魂場へお出であそばされた。帰り道,、鋳造場へお立ち寄りになり、夕方七つ半
       にご帰館になった。
 3月晦日   三条様より御菓子一箱を頂戴した。長府公から差し入れられた分である。
 4月朔日   御五卿様は引嶋を御覧になる。私、庫之進、峯太郎は、ともに御本船にお供した。
       破れ新田より御上り、福浦に取り付けた台場にて砲撃を御覧になる。それから福浦
       へお出でになり、農兵の小銃を御覧になる。金比羅の下の台場にて砲撃。それから

       金比羅神社へ御上りになり、御昼飯を召し上がった。そのとき、長府井上丹下よ
       り私に連絡があり、中飯の立宿へ、波多野、佐々木、赤根に同行してくれるように
       とのことだったので同行した。ご馳走があった。それよりお立ちになり、田首へお
       出でになった。また、弟子待台場にて小銃陣及び数十発の砲撃を御覧になり、また
       玉打ちを御覧になった。七つ時より御乗船になり、夕方御帰館になった。正一郎、
       庫之進、峯太郎は最初のとおり御本船にお供して帰った。
 4月 1日  今日より、中屋万三の妻が錦様のご看病に来るよう手配した。
 4月 2日  三条様からお呼び出しがあった。古白あやのの小袖を1つ、父にいただいたほ
      か、奥方様から鯛二匹、酒一斗をいただいた。夜に入り、正一郎、庫之進は、御五卿
      様から御酒をいただき、御短冊等、いろいろいただいた。
 4月 3日  御五卿様が駕籠で出立された。正一郎、庫之進、峯太郎とも、角石陣屋までお送
      り申し上げた。駕立の台場にて長府より白砲、コツ砲、破裂砲を御覧になった。それ
      から前田上の台場の上のご休憩処にてお弁当を召し上がる。しばらくして前田上下の
      台場の砲撃を御覧になる。また狙撃隊の台場及び断薬蔵など御覧になる。角石御陣屋
      へお入りになった。ここで正一郎は御暇乞いを申し上げ、馬で帰宅した。庫之進、峯
      太郎は陣屋に残った。今日、三条様のお使いにて渕上、土方、山県小介、林半七、そ

      のほかおよそ20人が小倉へ渡った。
 4月 4日  夜に入り、波多野金吾、上下三人が訪れた。酒場の二階に宿をとった。また、土
      佐の田処荘介が来た。これは錦様を警護する招賢閣の会議人である。佐野七は、奥の
      間に一人で泊まった。
 4月 5日  錦様より御菓子一箱をいただいた。渡辺左門が取り次いだものである。
 4月15日  亀山宮へ弓隊より奉納射芸をし、正一郎の矢は二本、当たった。
 4月17日  波多野が同行し、馬関へ行った。王司にて長府方よりご馳走をいただいた。
 4月24日  錦様よりちりめん、御ひふ、御扇子に加え、金500疋をいただいた。そのほ
       か、召使い用のもの、子どものもの、出入り商人の井石塩定までもいただいた。同
       日、波多野の取り計らいにより上様から金30両をいただいた。錦様は、にわかに
       ご容体が悪化した。御吐血あそばされた。益田太夫等をはじめとして、お役人方は
       残らず御本陣へ詰められた。
 4月25日  錦様がご逝去あそばされた。早速山口へ急飛脚、田処荘介が行った。
 4月27日  朝の五つ時、田処が山口から下関に戻ってきた。早駕篭である。今夜、御船入
        り。
 4月28日  東久世様がいらっしゃった。錦様のお棺等を御覧になった。御旅館は林家であ

        る。
 5月 4日  東久世様がご出発。山口へお帰りあそばされる。
 5月 6日  今日もまた、殿様より金15両を頂戴した。このたびの一件についてである。
 5月11日  陣屋へ行った。
 5月17日  わが家から陣屋へ急飛脚で、孫の剛太郎が急病であると言ってきた。そのため、
       馬で帰宅した。夜中、医師の李家氏が往診に来た。
 5月19日  昼、浜の納屋より出火。ほどなく鎮火した。
 5月晦日   山口の阿武九兵衛から、白石廉作が楠公祭に従祀されると仰せつけられたとのこと
       で、お供物を2包み送ってきた。
 6月 4日  新座敷を建てた。
 6月 9日  宇佐奉幣使である梅谷中将様が、岩国の新湊から御乗船になって、今日、豊前大
       里に到着されたと承った。
 6月12日  昼過ぎ、沢主水正様がいらっしゃった。原道太郎、穂神輝門、そのほか小松藩の
       4人がお供についていた。今夜、お泊まりになった。
       * 「幕末の豪商志士 白石正一郎」(中原雅夫)によると「沢宣嘉は生野に廉作
        を死なせて、自分だけが生き残っておめおめお会いすることはまことに申しわけ

        ない、と頭を下げるので、正一郎は、それを押しとどめ、廉作の死はわが家のほ
        まれであると答えて、酒を出し、延子(白石注:廉作の妻)に琴をひかせた。」
 6月13日  沢様が御乗船。別杯をさし、上前田お台場まで正一郎がお送り申し上げた。
         御船にて、またまたお弁当と御酒を差し上げた。
 6月17日  孫の剛太郎が亡くなった。証人である阿武九兵衛へ届け出た。
 6月24日  夏越の祭礼。但し、奉幣使様が明日御乗船なので、夏越は25日のところ1日早
        まることとなった。
 7月15日  角石陣屋へ備前からの使者が来た。台場を拝見するということで来た。
         水野、盛本、某の3人である。山田重作が一緒に来た。
 7月24日  筑前の戸田六郎が来た。19日の京都での変動のことを承った。
        * 禁門の変(長州藩の勢力が朝廷での勢力回復を目指して起こした戦闘)
 7月27日  昼過ぎに、福原、国司、両太夫が本山より上陸するとの噂を承った。
        * 禁門の変から戻ってきた。
 8月 4日  合図があり、出張っていく。埴生沖本山の辺りに異国船が17〜8艘、停泊して
        いる。台場より、およそ2里ほど離れている。隊の者は、おのおの持ち場を守っ
        た。夜に入り、各台場にてひと眠りした。山口より山県弥八、前田孫右衛門が下

        関に来た。惣管である赤根武人と山県狂介は馬関惣奉行のところへ行った。その
        他の者も行った。片野十郎が、夜半過ぎ、両人からの使いとして前田台場へ帰っ
        てきた。異国船が通行するだけならば無事に通すように、あちらから砲撃に及べ
        ば撃ち返すようにと、両殿様からの直接の命令である。前田様が伝えてきた命令
        を聞いて、夜半、隊中で突然の会議になった。君命に従うことに一決した。
 8月 5日  朝の間、馬関惣奉行所より異国船へ確認に行ったところ、異国船より砲撃すると
       の回答があったということなので、隊中の者は、それぞれ受け持ちの大砲に取りか
       かり待っていた。すると、およそ八つ時時分ころ、異国船7艘ばかりが田浦沖に停
       泊した。しばらくして、異国船より撃ってきたので、こちらの大砲も撃ち出し、お
       よそ30発も撃ち合い、みあわせた。異国船からは休みなく、かわるがわる撃ち出
       し、ことのほか烈しい砲撃戦になった。おのおの七つ半ころに陣屋へ引き揚げた。
       今夜、異国人は上陸してこちら側の台場を占領し、大砲の火門に釘を打ち、火をか
       けて焼き払った。
 8月 6日 早朝より砲撃の音が聞こえてきたが、こちら側は、すでに陸戦の用意をしていて、
       おのおの甲冑に身を固め、武具を持って待ち構えていた。壇ノ浦では、今朝からし
       きりに砲撃に及び、死傷者もあった。ついに陣屋を払い、椋野まで引き揚げるよう

       注進が来た。その後、未の刻になって、壇ノ浦の勢力は、山県をはじめとして残ら
       ず長府道を廻り角石に来る一手であった。異国人は、次々に上陸し、六度まで追い
       退けた。7度目に至り、昨日からの苦戦で、めいめい大いに疲労し、惣奉行からの
       援兵も無く、ようやく小銃2隊が長府から加勢に来た。陸戦隊中の者は、休みなく
       戦ったが、ついに退却戦になり、2〜3丁ほど引き揚げたところで、惣管赤根は踏
       みとどまり、清水茶屋のところに5〜60人残ったが、ついに異国人も追ってこな
       かった。そこで、こちらから陣屋に火をかけた。ずいぶんと燃え上がり、黒煙が立
       ち上った。日も暮れて休戦となり、諸隊は二ノ宮まで引き揚げた。御境内は狭く、
       それより一の宮に陣をとって夜半前、おのおの休息した。
 8月 7日  先日4日以来の疲れにより今日は一日休息として、軍議のある夕方に至って、明
       朝出陣する調練をした。異国人は、少しずつ上陸しており、ところどころで砲声が
       聞こえる。
 8月 8日  朝六つ時に、一の宮を出発して行軍し、椋野近辺まで行った。すると、大谷越の
       方に異国人が上陸したというので、赤根はじめ多人数が、そちらに行った。
         私は、八つ時ころまで本陣にいたけれども、気がかりなので、椋野道で馬関へ
       行った。阿弥陀寺で、道の上で穂神勢7、8人に出会った。一緒に兵糧をとり、一

       同となった。山根善右ヱ門も同行した。奥小路より南部の築出しまで出て見受けた
       ところ、異国人が彦島弟子待の台場を焼き払ったようだった。阿弥陀寺沖にも二艘
       かかり、紅石山に向かって砲撃した。馬関人の家はことごとく戸部を入れ、荷を避
       け、人影がなく、まことに寂寥としている。それからまた、王司より入り、帰路、
       川端の酒店に入ったため、百姓家に泊まった。帰途、聞いたことだが、和睦が調っ
       たとのことを長府の人から承った。
 8月 9日  今朝、椋野を出発して一の宮へ行ったところ、隊中が秋根村へ引っ越すというこ
       とになったので、すぐさま秋根へ行った。和議一条を承り、おのおの議論している
       ようだが、今更しょうがないことだ。今夜、おのおの秋根へ泊まった。
 8月10日  今朝も秋根にて、おのおの会議をしていたが、惣奉行はじめ廟堂より和議になっ
       たというのだからしょうがない。まず長府に陣取りするつもりで、おのおの出か
       け、二ノ宮に集会した。そうしているうちに、奇兵隊と膺懲隊は宮市へ引き取ると
       仰せつけられたとのことで、小月へ行った。
 8月11日  若殿様が船木までご出馬あそばされると承った。隊中の者は、今夜、厚狭まで行
       くことになった。しかしながら、わたしが愚考するに、和議が調った以上は、戦争
       になることはないのだから、一応、馬関宿本へ帰ってみたくなった。そのことを願

       い出たところ、認められたので、夜半頃、馬関に帰宅した。すると、尊大人、母、
       家内の者は大坪へ逃げていったとのことだったので、すぐさま迎えを使って呼び返
       した。今夜半すぎ、小田村文助が長崎から帰ってきたとのことで、訪ねてきた。宍
       戸太夫の家来である鈴木二郎左衛門と小田村が一緒であった。今夜、早船で埴生ま
       で帰った。
 8月12日  朝から大坪へ荷物を取りに行かせた。それぞれ、後のこと片付けておくように申
       し伝えた。8月の1ヶ月分の家賃は免除することを、嘉吉から貸家中へ申し伝えさ
       せた。
 8月14日  今夜、宿本を出発して、船で宮市へ行った。16日到着。
        本陣とされている神部某方に着いた。
 8月17日  奇兵隊より山口へ建白する草稿ができた。
 8月18日  今晩、赤根・山県・時山・杉山・福田の5人が山口へ建白を提出しに行った。
         今日、隊中のこらず三田尻御茶屋へ転陣するよう仰せつかった。
         御両殿様が謹慎中なので、金鼓貝などの鳴り物なく、静々と行く。
 8月21日  今日、会議があった。
         昨日、山口にて赤根が受け取って戻ってきた、御両殿様からの御直書の写しを

       拝見するよう仰せつかった。
 8月31日  山口より、赤根を御政務役とし、赤間関辺りの軍政御用取計を仰せつけられ、
       山県小助は、赤根がいない間の奇兵隊総督を仰せつけられたとのことである。
         このことについて長太郎・松岡修作と私とで同道し今夜より船で馬関へ行く。
 9月 2日  風向きが悪いため、新泊より上陸して、翌日の3日に馬関についた。
 9月 4日  赤根と飯田行藏とが同道で馬関を出発した。
 9月 5日  飯田と松岡長同道で、伊崎の日寄山より大坪・武久・赤田・安岡まで地形を順々
       に見ていって、秋根通り・一の宮へ出た。夜に入り帰宅した。
 9月 6日  今夜、武内正兵衛が来訪した。多田荘の三又と京都の女性2名が同道で来た。
         桂の妾と多田の妾である。
 9月13日  今日、三田尻へ馬で行ったが、馬が足を痛めてしまい進まず。
         松岡と飯田の両名は駕籠で行った。15日に着陣した。
 9月17日  今日の昼より遠乗り。中の関から西の浦まで行き、夕方、帰陣した。
         杉山・南野・世木・中村百太郎が同行した。
 9月21日  今朝より馬で山口へ行った。真田一太郎が同行した。昼どきに氷上山へ着いた。
         山県をはじめとして他の者が山口へ向かったので山口へ行き片岡で宿泊した。

         最近、俗論が沸騰し、まだ何ともわからない。
 9月24日  真田と両人で馬で三田尻へ帰陣した。
10月 4日  今日の昼、ご命令により、山口より全員で三田尻へ引き上げた。
         御両殿様は、萩へお出であそばされたとのこと。
10月13日  今日、遠乗りして、大道から長沢の堤まで行った。上田方で昼食をとり、帰路、
        宮市で酒を飲んで、夕方、帰陣した。福田、南野、世木、中尾、私である。
10月14日  今日、御陣屋で、昨年の丹州で戦死した9人の霊を祀った。一周忌である。
        それぞれが供物をお供えしたので、酒を酌み交わした。
10月19日  庫之進は今日から徳地へ行った。
        正一郎は三田尻から船で帰宅した。
10月29日  昼、高杉東行が訪ねてきて、座敷に潜伏した。萩で俗論が大沸騰したとのことを
       承った。夜半、九州から渕上郁太郎が来て、夜八つ時ころ野唯人が宿泊している長
       太方へ行き、正一郎も行った。鶏鳴頃、渕上を訪ねて佐世氏が来た。
11月 1日  朝、野唯人、大庭伝七が来て談話した。
         高杉は、谷梅之助と改名した。
         昼過ぎ、別盃を交わし、七つ時、乗船した。高杉、大庭、野唯人は筑前へ行く

         ご用所より山田七兵衛、田北左中が来て渕上と談話した。
11月 5日  夜に入り、庫之進が徳地より帰ってきた。隊中、残らず出山するとのことで、私
       を迎えに来た。
11月 9日  宿本を出立した。庫之進を召し連れて出山した。
11月10日  柳井田関門で、久留米藩の水野丹後に会った。三条実美公から長府へお使いとの
       ことである。夜四つ過ぎに山口の永福寺に着いた。
11月11日  毛利、上野殿は山口に鎮静として出張した。隊中より、8〜9人が行った。
         俗論党と議論になった。今月17日、大神宮へ祈願のため隊中より参籠する。
11月14日  今日、評議。諸隊が手分けして萩へ行き嘆願することに決まったが、夜に入って
       突然、長府へ引っ越すとの評議が決まった。
11月15日  四つ時、山口の永福寺へ向けて出発した。今夜、中軍は嘉川に宿泊した。
11月17日  昼、長府に着いた。本陣は覚苑寺である。
11月19日  萩へ証人の申請として清末からの書状を杉山に頼んだところ、早速書状を作成し
       て萩の雑式丁である中村新七宛てに提出してくれた。この書状は25日、穂神よ
       り萩へ遣わす便とあわせて送るものである。
11月23日  自宅で、極上の重箱に肴をととのえさせ、上酒5升とともに、功山寺にご滞在中

       の公家方へ献上することにし、野村靖之助に使いを頼んだ。
12月 9日  萩から長太郎の妹である、おしずが帰ってきた。
        庫之進、峯太郎へ添え書きして竹崎宿本へ送った。
12月15日  今夜八つ時、高杉をはじめとした慕挙党(暴挙党)が馬関へ出た。
       * 藩内の俗論党に対抗した高杉の功山寺決起。
         「高杉の挙兵によって長州藩の藩論が統一され、倒幕への路線がはっきりしか
        れたことを思えば、これは明治維新のもっとも大きい山場であった。」(中原雅
        夫「幕末の豪商志士白石正一郎」より)。
12月16日  今日の昼より諸隊が残らず伊佐へ転陣した。人数がいないので拠点はない。
        今夜も寺に泊まった。
12月17日  出立して小月まで行き、大閊へ行った。
        山県狂介、長太郎、穂神、私の4人は小月の菊永に泊まった。
12月18日  小月を出立して吉田に泊まった。伊佐本陣末の混雑のためである。
12月19日  伊佐に着いた。本陣は池田方である。三条西様、四条様のお二方は、伊佐池田の
        表の本陣なので、隊中は裏の部屋に泊まった。
12月24日  本日の夕方より、突然、私の金玉が大きくなり困ったことになったので、暇をも

        らい、25日、伊佐を出立して駕籠で帰宅した。
12月26日  隊中より赤根宛の手紙を預かったので、入江角二郎方へ届けさせた。
         夜に入り、岡千吉が来た。諸隊へ追討がかかったと聞いて仰天した。
12月28日  昼、野村靖之助、大田市之進、岡千吉が来て酒を酌み交わした。
         高杉も来た。赤根が行方知れずのためである。
12月29日  今日の昼、岡千吉が帰陣するので、庫之進を伊佐へ遣わし、同道させた。
         このところ、正一郎の金玉は腫れ歩行にも不自由なので、代わりに庫之進を差
        し遣わせたのである。
       * 陰嚢水腫か?

元治2年(慶応元年)

 1月 1日  夜半、岬之町にて人が斬り殺された。被害者は、三田尻の役人・松原八郎という
       者だそうだ。
 1月 2日  夕方、対馬藩の多田荘藏、萩の山県九右衛門、処幾太郎などが来て談話し、酒を
       酌み交わした。谷梅之助より手紙がきた。ユガケ(弓を射るための道具)を一つ借
       りに来るというので、白皮のユガケを貸し渡した。野唯人から手紙が来た。金を借
       りに来るというが、持ち合わせがないので断った。伊佐より岡千吉の手紙が来た。
       夜に入り、大庭が来て一泊した。
 1月 3日  昨日の夜半、遊撃軍が新地会所及び俗吏等に夜襲をかけたところ、俗吏は大いに
       恐怖し、大小刀をも取ることができずに逃げ散ったとのことであり、恥ずべきこと
       である。
 1月 6日  粟飯原が訪ねてきたが、すぐに帰って行った。
 1月 8日  昼過ぎ、伊佐より矢野登一が来た。また、大庭伝七も来た。伊佐の隊が、一昨日
       である6日に絵堂の出張に対して、夜間、およそ80人から90人くらいで夜襲を
       かけたところ、賊軍は大狼狽し、器械など多くの物をうち捨てて逃げ散り、賊軍か
       らは20人余りも死者が出たそうだ。隊からも、藤村太郎、天宮慎太郎が討ち死に
       し、そのほか、手負いの者が3人あったということを矢野登一から聞いた。早速、

       事の成り行きを遊撃軍へ知らせたところ、程なく、高杉、久保無二藏の両人が来
       て、矢野、大庭と話し合った。夜に入って皆が帰って行き、その後に、細川左馬之
       介が高杉を訪ねてきて、門口に立ったまま言ったところによると、ただいま八幡隊
       より知らせがあり、財満新三郎を打ち取ったという情報が入ったので知らせに来て
       くれたということである。
 1月 9日  夜に入り、矢野登一が舟にて小郡まで行った。
 1月10日  遊撃軍が馬関を発ち、残らず吉田まで出て行った。
 1月13日  伊佐にて、引き続き戦争中であることを聞いた。
 1月14日  公家方は筑前へお渡りになった。長府の役人が夜に来訪し、一泊した。
 1月28日  厚東二郎助が来訪し、一緒に酒を飲んだ。小笠原仁左衛門が来訪したが、すぐに
       帰った。昼過ぎ、長府より井上少輔、江見小平太、大庭伝七などが来た。
 2月 2日  夜に入り、奇兵隊より藤新七が来た。
 2月10日  昼前、奇兵隊より長岡与右衛門が訪ねてきた。台所で少し酒を飲み、隊中の様子
       と萩の様子を聞いた。
 2月12日  今日の暁ころ、今浦の饅頭屋某が惨殺された。噂によると、対馬の人をかくまっ
       たためとのことだ。昼過ぎ、野村靖之助が、庚辰丸の山田熊之介と一緒に来た。

         夕方まで少し酒を飲み、夜に入って、それぞれ帰って行った。
 2月15日  昨夜、籔の内にて真木菊四郎が惨殺されたことを、今朝、聞いた。
       * 真木菊四郎・・・真木和泉の子・志士。薩長同盟のため奔走。
       * 奥津城が、赤間神宮紅石山(下関市)に白石正一郎と並んでいる。
 2月20日  福原三蔵、細川左馬助、野村靖之助が、庚辰丸からそれぞれ訪ねてきた。
         一の宮の客と座敷で酒を酌み交わし、夕方、帰って行った。
 3月 9日  昼前、小崎禎介が訪ねてきて酒を酌み交わした。穂神へ、清末一条頼の手紙をこ
       とづけておくりだした。
 3月10日  昼過ぎ、隊中から庫之進から井石を出るとの手紙が届いた。2月15日に出した
       手紙が、今日、届いた。
 3月25日  豊後植田の長南梁より手紙が来た。おみちという女性の挨拶として、日田半紙4
       00枚を送ってきた。夕方、奇兵隊の柳原新十郎が訪ねてきた。穂神が近々、下関
       から出るということを聞いた。
 3月26日  木谷修藏が訪ねてきた。山口の様子を聞いた。今日、城の腰の地域から虎屋吉藏
       という者が来た。土佐の利岡平吉という人から正一郎と庫之進両名に宛てた手紙を
       持参してきた。開封したところ、同人の二男である利岡玄兵衛という者が、一昨年

       の京都の事変から三条公に付き添って長州へ下向した。この玄兵衛への届け状に封
       筒が入っていて、金子1包み入っていた。もっとも、これは別封にして虎屋吉藏が
       持っていたものであり、およそ50両あるとのことである。この金子と手紙を玄兵
       衛に届けてくれるようにという頼みごとが書いてあった。ところが、去年から土佐
       人と会うことが増えてきていたが、利岡玄兵衛というものは一切、知らない。ま
       た、三条公は、当時、筑前へおいでになったので届け先もわからない。そのため、
       そのまま返却すべきかと考えたけれども、折角、遠いところをわざわざ頼ってきた
       ことだし、せめて去年の冬に三条公が少しの間長府にご滞在なさっていたことか
       ら、長府の人が送り先を知っているかどうか、明日、長府へ問い合わせてみること
       を虎屋吉三に伝え、それまでの間、手紙は当方で預かり、金子は吉三が持っている
       のだから吉三にそのまま預けることにした。翌日の27日に大庭に問い合わせたと
       ころ、三条公の御守衛のなかに利岡という人がいるとは聞いていないとのことであ
       った。その後、4月1日に筑前の三条公の御使者が長州に来たときに、その人のこ
       とがわかった。この金子と手紙は4月11日に虎屋より受け取って、土佐の石川誠
       之介へ渡して筑前へ送った。

 


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