白石資朗法律事務所

白石正一郎日記現代語訳(奇兵隊編)

文久3年6月

文久3年
 6月 1日  昼過ぎに世子君様が裏門からバッテラにお乗り込みになった。およそ5,6丁お
        出でのところ、東の沖から外国船が海峡に入ってきたために相図の大砲で砲撃し
        すぐさま引き返されて浜門からお入りあそばされた。さて、頻りに砲撃の音が聞
        こえ、廉作、庫之進が出陣した。私は、若殿様がおられるため、家にとどまっ
        た。外国船は、おもに壬戌丸を的として砲撃した。世子様がお乗りになる船だ
        と知ってのことか、壬戌丸に弾丸が多くあたった。また、庚辰丸、癸亥丸にも弾
        丸が多くあたり、ついに、壬戌丸のドウコが打ち破られ、煮え湯による即死者が
        4人。伊崎の利吉と申す者は水先案内を勤めていたところ、弾丸にあたって即死
        した。
         さて、若殿様がお引き返しになった後、すぐに徒歩にて伊崎の日寄山へお登
        りになり、外国船の様子を御覧あそばされ、夕方、ご帰還あそばされた。中山卿
        も当家にお出でになり、突然、御上京の御議論になった。前田御茶屋へ滞在して
        いる者たち5,60人がお供するとのことである。
         中山卿からも、若殿様からも、いろいろと頂戴物があった。
        * 外国船はアメリカ船のワイオミング号。「さきに砲撃されたベンブローク号

         の復讐のためにやってきた」「(壬戌丸は)船上に旗幟を立て、定紋の紫幕を
         はっていたので目標にされた」「ワイオミング号はちょうど南北戦争中の北軍
         の軍艦で、南軍の軍艦アラバマ号を追って横浜まで来たがベンブローク号のこ
         とを聞き、下関をめざしてやってきた」(「幕末の豪商志士 白石正一郎」中
         原雅夫)
        * 「この日、姉小路公知の死が知らされた」(「幕末の豪商志士 白石正一
         郎」中原雅夫) あわただしく上京の議論になったのは、そのため。
  6月 2日  若殿様が駕籠でご出発になった。今日から前田台場を築き上げるためのご加勢
         として廉作と庫之進が進発頭とされた。竹崎の者を2,30人召し連れて、白
         木綿の小幟に「報国尽忠一番竹崎」と書き付け、太鼓を打ち、出勤するので、
         おいおい、新地や伊崎、今浦近辺からも人数が加わってきた。
          さて、今日の昼過ぎに、宮城から申し聞かされ、大庭を呼びに遣いをやっ
         た。これは、昨日の軍が、壬戌丸をめがけて砲撃したことについて、幕吏が乗
         り込んでいたようで、下関にも3人ほど滞在していたとのことである。状況が
         落ち着いたら内分取り調べることなどがあるようだ。
  6月 3日  昼過ぎ、久留米藩の真木外記、原道太、荒巻羊三郎、坂井伝二郎、滝弥太郎、

         赤根幹之丞が連れだって来た。久留米藩の4人と滝は夜も昼も歩き通し、宿の
         駕籠にて上京する。今日、大庭よりからの知らせで、明日、長府公より私へ四
         つ時にご用があると申し伝えられた。
         * 赤根幹之丞は、赤根武人。のちの奇兵隊総督。
  6月 4日  長府へ罷り出たところ、生涯三人扶持の俸給を下された。書き付けは原田より
         渡された。
  6月 5日  外国船が、上方から2艘、海峡に入ってきた。フランス船とのことである。八
         軒屋の台場へ行って見たところ、アメガクボに繋船している。長府と前田台場
         へ向けて大砲で砲撃し、追々、大軍になった。前田台場の大砲は破壊され、外
         国人はバッテラで前田に上陸し、人家を焼き尽くした。そのほか、大騒動に
         なった。昼七つ時に少しの間、帰宅し、尊大人、母、峯太郎などが一の宮へ移
         り住むように取り計らい、荷物も必要なものを少々、送った。
  6月  6日 宮城が下関を出た。途中、何者かが斬りかかってきたとのことである。幕吏で
         あろうという。夕方、久留米より土屋矢之介が下関へ帰ってきた。久留米藩の
         20人ばかりが上京した。今夜遅く、萩から高杉晋作が下関へ来て宿泊した。
  6月  8日  高杉が、当家にて奇兵隊を立ち上げた。正一郎、廉作、井石綱右衛門、山本

         孝兵衛などが入隊した。
           昼、高杉が其外船で台場を見分した。萩のお役人より、中山卿が滞在した
         ご挨拶として60両を頂戴した。薩摩より問い合わせとして重野厚之丞、川治
         正之進の両人が到着し、酒屋の2階で高杉と対面した。両人は今夜大里まで
         帰った。
  6月  9日  昼前、関の田中にて、山田志摩を捕まえてきて、当家にて取調べがあった。
           また、長府領の虚無僧ひとりと、大塚柳斎、尾崎禎助なども同様であった
          が、問題なく釈放された。長崎の者ひとりが御手洗屋に居候していたのが捕
          まった。今夜は、目明かしの預かりとなったようだ。今日、芸州の穂神輝門
          という者が来た。赤根が応対し、久留米藩の渕上、池尻茂四郎、山本実、
          松浦八郎、木原貞亮等が、すぐさま上京した。山田志摩は、今夜、斬られ
          るところであったが、しばらくの間、救われることになった。。
  6月 10日  今日までに、奇兵隊士はおよそ60余人となった。
  6月 11日  長府へ、先日のお礼を申し上げに参るための支度中、突然、大砲を積ん
          だ外国船が来た。すぐさま、奇兵隊が出動した。長府の手前、浜の方、百
          町の浜辺に潜んで待機した。八つ時、外国船は出帆し、上方に行った。戦

          争にはならなかった。イギリス船であった。
  6月  12日 長府へ行き、お役人の家へお礼した。
  6月  13日 奇兵隊の連中は、今日、この方を引き払い、残らず馬関に陣取ることに
          なった。宮城ほか数名は小倉へ渡海した。昨夜、長府興膳と尚蔵が斬られ
          たようだ。
  6月  14日 宮城、赤根が夕方小倉から戻ってきた。
  6月  15日 久坂が京から帰り、来訪した。また今夜から上京するとのことである。先日
          京都で姉小路様を斬ったのは、薩摩の田中新兵衞と申す者であることを、
          今日、久坂から聞いた。波多野も、今日、来た。
  6月  16日  夕方、大村の人である渡辺昇、千葉茂手木の両人が来訪した。高杉
          が応対し、奇兵隊から5人が小倉に行く。ほどなく、小倉から3人が戻って
          来た。話し合ったうえ、またまた小倉へ差し遣わせた。田浦借用一条也。
  6月  17日  大村の両人が出立し、帰省した。
  6月  18日  萩から坂上忠助と秋良敦の助の両人が九州へのお使いとのことで来訪
          した。ところが、もともと偏屈な者なので高杉と意見があわず、両人は帰っ
          て行った。22日、豊前に渡海した。

  6月  20日  高杉は穂神と同道して前田台場へ行った。
  6月  21日  長州藩、大阪から30人ばかり到着した。
  6月  23日  在番から奇兵隊にご用とのお達しがあった。お役目は、留守中、当分小林
           熊二郎へ申しつけられた。
           * 幕末の豪商志士白石正一郎(中原雅夫)によると「清末藩竹崎在番か
            ら白石正一郎に対し、6月23日、奇兵隊ご用を勤めよとのお達しがあ
            り、その代わり大年寄の役は小林熊二郎がつとめることになった。」


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